🕰 西暦100年代の世界の歴史の解説


キリストが生まれてからどのくらい経った?
それが西暦です。

 … 西暦100年代 …

実は、日本の歴史上、この時代こそが一番重要な時期となります。

なぜなら……

ヨーロッパに、神の子が現れた100年後。日本にも、同じように神の子孫が現れたのです。

『日本神話』の中の〝神武天皇の登場〟が、まさにこの時代なのです。


テーブルデザインピンク2行 あれ? 神武天皇って本当に存在するの? てっきり物語の創作キャラと同じ扱いかと…
『神武天皇』が伝説とされる理由は、ご存知ですか? それは『神武天皇』の生きた時代に文字記録がなかったので、彼の存在を示す記録が、後世の〝神話系の書〟にしか登場しないからです。 これらの『神話』は物語形式なので、事実とフィクションの区別がつきにくい。 なので『神武天皇』の存在は「実在は真実だろう」と思われてるものの、公式には『伝説上の人物』との位置づけなのです。
テーブルデザインピンク2行 実在してたんですか? それはいつの時代だったんですか?
それは『神話の内容』と一致する、歴史記録を見れば割り出せます。 いよいよ、『神話』と歴史の融合です! さあ、結果はどうなったでしょう?   ・    ・ 

🔍 『伝説上の人物』の謎を解き明かす

『神武天皇』が本当に実在したか? それについては、まずは『神話』を通して、彼の足跡を、時間の流れに沿って整理する必要があります。 その足取りをたどる中で、

・ 長年過ごした地での『土地伝承』(高千穂など) ・ 直系子孫のエピソード (邪馬台国の卑弥呼など) ・ 別な古文書の記録 (古語拾遺・魏志倭人伝) ・ 武器の性能 (剣や馬が出てくる時代) ・ 考古学での調査結果 (古墳)

これらも見比べることで、そこを突破口に、精度を高めた事実を割り出すことが出来ます。 まずは、私が『神話』を原文から訳し直したことで割り出すことができた、神武天皇の足跡です。   【神武天皇の足跡】(神話を自分で訳し直した)
  ►… 神武天皇・高千穂の部 …◀ ・ 最初に大和氏やまとのうじの遠祖が、高千穂の地を制圧 ・ 神武天皇が高千穂の地に降り立つ ・ その地で3人の子が誕生(長女・長男・次男) ・ 熊襲を撃退後、東征開始
  ►… 神武天皇・東征中 …◀ ・ 筑紫の岡田宮に1年滞在 ・ 阿岐国(広島県)多祁理宮たけりのみやに7年滞在 ・ 吉備(岡山県)の高嶋宮に8年滞在中に   スサノオに子(天孫)が生まれる ・ 神武天皇の兄は戦死 ・ 船で「浪速の渡し」を経て、いよいよ陸路決戦 ・ 途中何度か敵襲に遭う(3回以上) ・ 大王様、無事に奈良の地に到着
  ►… ヤマト政権の中央集権化 …◀ ・ 奈良の橿原かしはらに宮殿を造る ・ 豪族代表者を宮殿に集めて初代天皇宣言!   ⇢ ヤマト政権のスタート ・ 部下を地方豪族の主に据え、各地で稲作等を指導 ・ 出雲だけなかなか落ちない。スサノオ(長男)仕事せず ・ 卑弥呼姫(長女)が応援に来て、出雲の国譲り成功
  ►… 天災の対策 …◀ ・ 大規模火山噴火。天岩戸隠れ(太陽が噴煙で消える) ・ 大王様、対策の陣頭指揮   ⇢ 記録が残るのはここまで
  ►… 大王様の崩御後 …◀ ・ 巨大な前方後円墳の建築箸墓古墳はしはかこふん ・ 巨大すぎて、完成が西暦300年頃にまでずれ込む   ⇢ これが古墳時代の始まり
  ・    ・  この中に、歴史と照らし合わせて年代を絞り込めるヒントがあります。 それは、『ヤマト政権』のスタートの部分です。 のちの『大和朝廷』となる政治体制の原形である『ヤマト政権』スタートが『神武天皇』によるものというのは『古語拾遺』にイキイキと描写されています。
『古語拾遺』該当部分

妖気が晴れて風塵がなくなった後のこと。 ( ↳ 邪魔だてする敵がいなくなった比喩) 奈良の地、橿原かしはらに、ヤマト政権の都が建てられたのでございます。 その都に、天皇の住む御殿が作られ、その新たな地で政治的な決定や儀式が行われたわけでございます。 ( ↳ 大和朝廷の原形のスタート) 橿原の都は、まるで天上の楽土のように栄え、天皇や皇室の権威と威厳を保ちつつ、国の安定と繁栄を象徴する都だったのです。

これを見て分かるように、奈良の地を〝特別な土地〟にしたのは『神武天皇』 その新たな地で〝政治的な決定や儀式が行われた〟と書いてありますから〝ヤマト政権〟のスタートもこのタイミングなのです。
テーブルデザインピンク2行 〝ヤマト政権〟と『大和朝廷』の違いって何ですか? このふたつは別物ですか?
歴史の目線から見ると、最初は〝ヤマト政権〟と呼ばれる新興勢力が、奈良の地に都を定めた後、次第に周辺の小国や部族を従える形で統一国家へと発展していったと整理されています。 この〝ヤマト政権〟が発展し『天皇政治』としての形が整った後の呼び名が『大和朝廷』です。

〝朝廷〟という言葉は、元々中国王室からきています。 この言葉の由来は〝皇帝が政務を行う場所〟のことで、皇帝の住む宮殿区内に臣下たちが集まり、そこで議論の集会や国の重要な意思決定が行われていた。

〝ヤマト政権〟は、代々の天皇に引き継がれるごとに、少しずつ権力基盤を強め、後に『大和朝廷』に変わったので、『大和朝廷』という呼び名に変わった時期は、100年以上後の、3世紀後半から4世紀にかけてと言われています。 〝ヤマト政権〟の頃は、まだ文字記録がゼロだったので、歴史の目線から見ると、「なんとな〜く」のおぼろげな形しか見えなかったのです。 ただ…… 日本での記録はそうでも、中国の歴史書『魏志倭人伝』は違います。 『魏志倭人伝』といえば、邪馬台国の卑弥呼を記述していることで有名ですが、原文を翻訳すると、実は年代までしっかり記録されているのです。 西暦230年代にはすでに卑弥呼は女王の地位にいたと……。

💻 関連LINK……『魏志倭人伝』の訳と卑弥呼の謎を解く!

すると、そこを起点に前後の年代を割り振ることで、ピンポイント特定に近いほど、年代を絞り込むことが出来るのです。
【推定される年代】(西暦100年代)
西暦 推定年齢 出来事
 ►… 高千穂
160年頃 30代  ・ 神武天皇が高千穂の地に
 ・ その地で子ども誕生   ↳ (長女・長男)
 ►… 東征開始(45歳で東征開始)
170年頃 40代  ・ 筑紫の岡田宮
 ・ 阿岐国(広島県)の多祁理宮
180年頃 50代  ・ 吉備(岡山県)の高嶋宮   ↳ おのころ島の王族
 ►…〝ヤマト政権〟のスタート
190年頃 60代  ・ 奈良宮殿に豪族代表者を集め天皇宣言
 ・ 部下を地方豪族の主に据える   ↳ 出雲は素戔嗚尊が担当
 ・ 出雲だけなかなか落ちない   ↳ 姉上が応援に来る
 ・ 出雲の国譲り成功
200年頃 70代  ・ 大規模火山噴火
テーブルデザインピンク2行 『神武天皇』って縄文時代じゃないんですね。 神話に出てくるから、もっと古い時代の人かと
『神武天皇』の登場は、『弥生時代』の終盤〜『古墳時代』の入り口にかけてなのです。 それは『神武天皇』のイメージ図も、その事実を示しています。 装備している武器の性能も、弓と剣ですから、縄文時代とは合いませんし 『神武天皇』の髪型って、後の『古墳時代』を象徴する〝鉄アレイ型〟なのです。 【神武天皇】 神武天皇 💻 引用元LINK……橿原神宮 『古墳時代』の日本だけ、なんであのような〝鉄アレイ型〟の髪型が流行ったのか? というと、古墳時代の貴族、豪族達が『神武天皇』への忠誠を形に示すため、彼の姿を真似したからなのです。   ・    ・  『日本神話』と歴史とぶつけると、予想以上に、面白いでしょう? この、『神武天皇』の登場と「ヤマト政権」のスタートの時期にあたる、西暦100年代とは、いったいどんな時代だったでしょう?

📺 西暦100年代(2世紀)の日本&中国

    日本 中国
特徴 この時代の日本は、弥生時代末期にあたり『神武天皇』が奈良で天皇宣言をしたことで、ヤマト政権がスタートしました。 同時期の中国は、光武帝による後漢が支配していました。ただ、宦官と皇族の争い、地方豪族の勢力拡大、さらには黄巾の乱など、色々と大変になり始めてました。
外交 『神武天皇』が、王として政権をスタートさせたことで、外国と格が同じになり、朝鮮の王族や中国王朝との直接のやり取りが活発になりました。 シルクロードを通じて、ヨーロッパとの貿易が盛んに行われていました。この交易路は、文化や宗教、技術などの交流にも大きな役割を果たしていました。
道具 この交流で、新型の青銅器や鉄器の使用が増え、これが社会や文化に影響を与えていました。土器、織物、金属工芸なども飛躍的に発展します。 高度な鋳造技術があり、青銅器や鉄器が広く使われていました。 伝統医学が発展し、特に薬草学が重要視されました。
社会 構造 地方豪族に対しては『神武天皇』が統合と役員派遣を進めます。天皇配下の側近を地方の統率者に据えることで、中央集権化がはかられます。 安定した社会と農業の発展により、人口が大幅に増加しました。大都市が成長し、商業と手工業が発展しました。
宗教 神武天皇の崩御以降『古墳時代』の幕開けです。3世紀以降になると、天皇配下の豪族の地に古墳が量産されるようになります。 仏教が中国に伝来し始め、宗教の多様化が進みました。 儒教が国家の公式イデオロギーとして復興しました。

📺 『金印』の文字は神武天皇のことを指す!!

福岡県の志賀島で発見された金印 漢委奴国王 その金印に刻まれた[漢委奴国王]という文字は、 中国の後漢の皇帝(光武帝)から「奴国」の王に対して、その地位を認め、外交的な使節として贈られたものと解釈されています。 長い間「奴国」とは、「邪馬台国のことを指すのではないか?」 と言われていましたが、違います。 光武帝の時期にちょうど日本の王様になったタイミングの方がいましたね! 外国から格を認められ、朝鮮の王族や中国王朝との直接のやり取りが始まるほどの、大王様が。 ……この金印が贈られた相手は、『神武天皇』だったのです。 福岡県の志賀島で発見された理由は謎ですが、考えられる可能性は……

・ 地元の海賊が、中国からの船を襲撃した ・ 古墳荒らしをして、埋葬物を盗んだ ・ 貴族が個人的に譲り受け、その子孫がこの地に

このどれかが考えられます。

📺 『古墳時代』の始まりは神武天皇の前方後円墳から!!

神武天皇の崩御後は、特大の墓が建てられることになります。 それは、過去に例のなかった規模の、日本最古級さいこきゅうの〝巨大前方後円墳〟 『箸墓古墳はしはかこふん』です。 その建造物が『神武天皇』の政治の地、橿原かしはら市にあるわけです。 どのくらい大きいか? というと、全長約280メートル。 お墓ひとつで、東京ドームよりもはるかに大きいサイズとなります。 あまりにも巨大すぎて、完成までにおそらく100年以上費やされています。 こうやって、証拠を積み重ねていくと、歴史と神話がぶつかって、伝説が〝事実〟に変わるのです! 歴史とは、リアル謎解きゲーム!!   ・    ・ 

👤 『箸墓古墳はしはかこふん』ってどんな感じ?

箸墓古墳 写真 奈良県歴史文化資源データベース
 🔲 形状 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-

巨大な前方後円墳。 この形は〝鍵穴〟と言われてますが、本当は〝人の上半身〟👤を表しています。 前方後円墳 の形は『皇族&その子孫』しか作ることを許されない形でした。

 🔲 被葬者 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-

当時のヤマト政権の最も権力のあった指導者と推定されています。 時代背景から、卑弥呼の墓という説もあるようですが、これだけ特大の古墳の場合、埋葬者の候補は、比類なき権力者の存在が必要となります。

 🔲 完成時期 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-

3世紀後半〜4世紀と推定されてます。これは、あまりにも巨大プロジェクトすぎて、完成に期間がかかりすぎたため。おそらく、崩御直後は、もっと小さい日本最古の古墳が、仮のお墓だったはず。

『神武天皇』が生きた時代は、弥生時代末期から古墳時代の手前にかけて。 そして『神武天皇』の存在こそが、後の時代の天皇政治『大和朝廷』のスタートであり、その地に残された巨大なお墓そのものが『古墳時代』のスタートなのです! 日本の歴史に対する影響力の大きさは、あの徳川家康以上!! 日本史上最強の人物は、実は初代天皇『神武天皇』なのです! NEXT西暦200年代の日本&中国




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